我が家&和賀家 23年

24/3/20

   お彼岸の中日なので、O家と藤守へお参りに出たのだが、午後早くに行ったらどちらもお留守。O家は目の前がお墓なのでお墓参りだけして、夕方TANUKIが改めてお参り。藤守の方は、さて、何時なら誰かいるのか…。

24/3/1

   横浜の義姉から「お陰様で退院した」と電話。娘さん達それぞれ忙しそうだが、今日は長女が休みを取って付き添ってくれたらしい。
   こちらはまた入院した事さえ知らずビックリ。まだ体調が戻り切っているようでも無いので、色々聞くのは遠慮したが1度会いに行きたい。

24/2/14

   夜、バレンタインチョコを渡しに、ちょっとマーミ宅を訪ねたら、妙に咳き込みながら出てきた。風邪ではないというのだが、O家は気管支から肺の弱い一族なので、いささか心配だが、よほどの事がないかぎり禁煙はしそうもないが…。

24/1/8

   十勝から今年は年賀状を出さなかったからと家族写真+栗祺の写真が来た。
   十勝も正月に積もった雪があっという間に溶けていく暖冬だそうだ。『一応たまにマイナス20度になったり、犬が散歩中に霧氷まみれになったりはします』との事だが…。

24/1/7

   大の叔母さんが「今年もよろしくね」と寄ってくれた。このお正月は娘さんの所へ行ってその子供達2人にも会って来たそうだ。「そろそろ嫁さんは?」と聞いたら、「今はうっかりそんな事は言えないけど、まだまだね」との事。まだ2人とも20代だし…。
   夕方にはジュンちゃんが「実家へ行った帰り」と寄ってくれた。お姉さんの所の末っ子が今年成人式だそうで、お祝いだったそうだ。

24/1/2

   藤守へお線香を上げに行った。「年始じゃないけど、お線香を上げさせて」と家の親の喪中にも新年にちょこっと寄っていってくれた義弟だったので、そのお答礼。母さんは午後から出勤という事で、ちょっと寄らせてもらっただけだが、今日は長男も猫も出てきてくれた。珍しくというか多分初めて長男坊がお茶を淹れて出してくれた。
   他の子供達家族は昨日、母さんの休みに合わせて集まったようだ。

23/12/30

   喪中だが、マーミ宅で餅つき。藤守の母さんも来て大人ばかり5人だが、我が家の場合男3人は姦しいが、女性が増えても静かなもの。
   今年はお供えが無いので初めにマーミがどんどん伸餅を作っていく。最後の3臼でおさんこちを作る。予定よりもあんこを押し込んでしまい「数が…」とマーミが不安に。TANUKIが「もしやと思って持ってきた」という出来合いのあんこも足して、150から160。
   今回はマーミが慌てて中釜を入れずに蒸し米を餅つき機に放り込んでしまったり、蒸し布を巻き込まれたり、普段あまりないミスもあったが、終わってみれば良い感じのお餅に仕上がっていた。
   昼前には藤守の次男坊家のママと娘が参戦。保育園児の娘ちゃんが初めておさんこちに挑戦。
   お昼をご馳走になって、それぞれの分を分けてもらって解散した。

23/12/29

   連島の従弟から電話。みんな元気で居るらしい。お正月に生まれた娘もまだ歩かないものの立っちはできるようになったそうだ。
   叔母さんもそれなりにお元気らしい。

23/12/26

   天王寺は風邪で全員ダウンだそうだ。

23/12/21

   岩手では叔母さんが亡くなられた後、空き家になっていたはずの家に次男坊一家が引っ越したそうだ。雪の季節のメンテナンスはどうするのだろうと思っていたが、無事にバトンタッチで来たのならばよかった。

23/12/14

   天王寺の従妹から「猫カフェに行ってきた」と写真をもらった。家に居る孫ちゃんが保育園に行くようになって少し余裕が出てきたのか…。うらやましい。

23/12/8

   埼玉の叔母から電話。「今年はコロナで体調を崩してスタートだったからね」との事。夏の終わりには叔父が体調を崩し、「良い事はなかったわ」との事だが、それなりに今年の最終コーナーまで来たのだから良かった。
   叔父は「相変わらず頑固」だそうだが、週3回透析に通って体調もまあまあらしい。
   娘や孫たちも様子を見に来たり買い物に連れて行ってくれたりと頑張っているようだ。

23/12/6

   日比と十勝の叔母から電話。どちらももう高齢だが、元気そうで良かった。
   ただ、日比の叔母は転んで洗濯機にぶつかったとか言っていたし、他は男ばかりで未だに家事に忙しいようだ。
   十勝はまだまだ元気で、サロンでのおしゃべり会などの活動も続けているそうだ。

23/11/15

   埼玉の叔父から快気祝いとしてお豆腐のセットが届いた。地元の自慢の品。温泉湯豆腐のレシピが入っていたので早速試してみた。

23/11/9

   埼玉の叔父から無事退院したとの電話をもらった。

23/10/29

   藤守の父さんの納骨法事。皆でお寺へ集合。位牌堂でお経・焼香の後、墓地へ。彼もご先祖様の仲間入りをした。皆でお線香をあげるだけでお墓での納骨は終了。
   その後、市内の料理屋さんへ。小さな子供達が多かったのだが、皆お行儀がよく、静かに食べていた。
   気が付けば我々(母さんのお姉さんの旦那さんとTANUKIと私)が最年長の同学年。
   皆車なので昔のようにお酒のやり取りがなく、子供達も多いのでおしゃべりをしながらの食事会だが、和やかな時間がもてた。しかし、藤守の父さんの賑やかな話声が無いのはいささか寂しい。

23/10/27

   収穫の秋というべきか、頂き物が次々とやってくる。今度は十勝から頂き物のおすそ分けだというジャガイモと小豆、カボチャがやって来た。適度にあちこちにお裾分けして美味しい内に頂きたい。

23/10/26

   別々の親戚からブドウとリンゴが送られてきた。我が家、春のイチゴ以外は冬にTANUKIがミカンの箱買いをする他はフルーツはあまり買わないのだが、しばらく秋の果物が楽しめそうだ。感謝、感謝!

23/10/11

   埼玉の叔母から電話。叔父がやっと歩けるようになったようで、ホッとしていた。
   家の前が坂の上、駐車場から玄関までも階段を上がる事になるので、車いすでは自宅へ戻ってくるわけにはいかなかったようだ。
   高齢なので介護保険で色々対応してもらえるだろうが、本人が元気で動けるのが1番良いのは間違えない。

23/10/9

   瑞穂の従妹夫婦が来た。本当は長女一家も一緒のはずだったが末っ子が発熱で今回は来られなかった。長女家の親族の誰かが急な入院手術とかという話もあったので、落ち着けないのだろう。
   次女も長男もそれぞれのパートナを見つけて落ち着きそうだという話だ。
   叔父も写真ではそれほど具合が悪そうでもなく、ただ、高齢なのでしばらく車いす、今の病院からリハビリ病院を経て退院という状況になりそうだ。従妹が実家との行き来をしながら手伝っているそうだが、「車の運転の長距離は膝がね…」とのこと。ダンナも「膝に来ていてしゃがむと立つのが大変だ」と言い出した。それぞれ仕事があるわけだが、身体の心配をしながら生活する世代に入ったようだ。
   今回のメインの用事は先方から藤守への香典を預かる事と叔父へのお見舞いをことづけること。ずいぶん遠方までお昼を食べに立ち寄ってもらう事になった。

23/9/30

   藤守の母さんから、父さんの納骨法要の予定日の連絡が来た。親戚の葬儀が立て続けだったので、後もダブル恐れがあるので、早めに決めてもらうのはありがたい。

23/9/29

   埼玉の従弟から電話。叔父が尿閉を起こし、透析のための準備の入院をしたそうだ。「何しろ高齢だから…」と連絡をくれたが、今時は病院は面会禁止。そう長い入院にはならないはずなので退院したらまた連絡をくれるという。

23/9/26

   秋らしい良い天気の中で藤守の義弟のお葬式。
   10時頃から出棺前のお経と出棺準備。抗がん剤で髪が抜けたのを気にして急に帽子党になっていたので、お気に入りの帽子をいくつも。お菓子やらパンなども孫ちゃんの手で入れられ、何故か道路地図も。もちろんレオの写真もたっぷりと持って行った。皆で顔の周りに花を入れ、いよいよ出棺。ここも斎場はすぐだがバスで移動。
   火葬場でも次男家の孫ちゃんがいつまでも名残惜しそうにじいじの顔を見つめていた。
   収骨を済ませてお葬式。まだ66歳。直心孝純居士。これから49日まで仏弟子としての修行をしながら仏様の世界に行くのだそうだ。
   お別れの言葉はまだ幼稚園の年少さんの孫ちゃん。「じいじたくさん遊んでくれてありがとう。大好き」だった。
   義弟は正式にお婿さんに行ったのだが、そちらの親族が平日にもかかわらず小さな子供達も一緒に来て大勢で見送ってくれた。

23/9/25

   夕方、藤守の通夜。お昼ごろにはTOPPOさんも家に来てくれた。夕方3人で通夜に。
   藤守の孫たちは2人とも大人しくしていた。こちら関係者はほぼ一昨日から一緒。当目の従妹も来ていた。
   TOPPOさんだけでなく、カンマさんやナベさんなど、昔からの遊び仲間も合流。「葬式で集まるようになっちゃ…」と言いながらも「しばらくだったね」と旧交を温めていた。
   昔からの菩提寺さんのお坊さんで藤守の父さんも信徒会でかかわっていたらしい。
   お通夜の初めに仏弟子になるための剃髪の形を取ったり、古いしきたりが残っていた。

23/9/24

   当目の叔母のお葬儀。10時から出棺。衣類を入れている時「あ、私のスカートを間違えて持ってきた」という従妹。たくさんの生花の他に、好きだったマグロのお寿司や、何かの時に「おいしいね」と食べたというマクドナルドのハンバーガーやポテト、果物、折り鶴やぬいぐるみの猫もお供に入れた。
   会場の隣が斎場。それでも霊柩車の後からバスに乗って移動。見送りの後、お斎を食べながらの待ち時間。高齢の女性の割には時間がかかったが、そのまま出て来るのではなく、骨壺に納めやすいように、大きい骨をまとめ、多分、頭骨は別に集めてあったようだ。一通り参列者全員で骨揚げをした後は遺族と職員で納め、後はバスで待つことになった。
   戻ってお葬式。ちょうど90歳、享年91歳、戒名は宗室寿光清信女。
   叔父もまだ健在だが、子供は娘1人、孫もそこに女の子が1人だが、従妹の旦那さんも含め家族そろってお葬式を営んでいた。
   お孫さんがお別れの言葉でコロナ禍と受験で2年ほど会えなかった事を残念がりながらも優しいお祖母さんをしのんでいた。叔父は高齢なので、喪主は従妹が勤めたのだが挨拶の中で「しつけは厳しかったが、結婚する時は自分が縫った着物や良い包丁などを準備してくれた」と懐かしんでいた。
   本来なら初七日のお勤めまで居なければならないのだが、藤守の自宅出棺も今日の午後、血縁の兄弟が居るのに誰も出ないというのもおかしなもので、当目の葬式はO家本家になるマーミ夫妻に任せて我々は藤守へ。
   娘がせっせとお父さんの写真セレクションを作っていた。最近のものはほとんど彼女のスマホの中からプリントをしたらしい。
   子供たち家族や母さんのお姉さん夫妻など親戚も見えて、まずは次男家の幼稚園児の娘もお手伝いして冥土の旅支度。そしてお棺に移動。ご近所の皆さんに見送られて葬儀場へ。
   本日お通夜の人があるので、2Fの小間で落ち着き、お線香をあげて担当さんと明日の打ち合わせ。皆さんはもう少し残ってお通夜のようだが、我々は落ち着いたところで帰らせてもらった。

23/9/23

   当目の叔母のお通夜。横浜からは長女がやって来た。1人で来たのは初めてだったが、たいていお父さんの車で来たし「焼津駅には初めて降りた」と言っていた。
   駅で彼女を拾って当目のお通夜。叔父さん方の親族は全く分からないのだが、親族での静かなお通夜。しかも、お坊さんのお経とともにお焼香が始まったので、あっという間に終わってしまった。
   1年ほど前から胃ろうにされていたそうで、お年の割に健康そうな様子で亡くなられていた。
   叔母さんのお写真はかなり若い時のもので、「よく叱られたよな…」とTANUKI。「俺は可愛がってもらった」とマーミ。それぞれの感想。
   横浜の長女が「藤守の香典を預けたい」というので、そう遠くないからと帰りに連れていく。「叔父さんには普通に可愛がってもらったから」という彼女。藤守の母さんも喜んでくれたし、最期に会えて良かったのではないだろうか。
   お天気が不安定だったので、夕食も食べさせずに帰してしまったのがちょっと残念だった。

23/9/19

   午後、藤守の義弟が亡くなった。透析が終わった所だったらしい。
   昨日朝、当目の叔母が亡くなったという連絡が今日入り、「藤守は何日か前に床屋に来たらしいよ」とマーミが話していたので、そこそこ元気なものと思っていたので、ビックリした。
   だんだん体力は無くなっていたが、「70までは頑張ってくれると思ったのに…」と藤守の母さんは残念がっていた。
  ただ、闘病そのものは長かったので、本人も重たい身体を手放してホッとしているかもしれない。

23/9/13

   午前中に「無事に退院した」と横浜の義姉から電話。「心配かけてごめん」と言われても、昨日聞いたばかりでお見舞いもしていなかったのだが…。それでも「TANUKIが心配して会いたがっていたよ」と伝えたら、とてもうれしそうな声を出していた。
   子供達が心配して片付けたらしいが「家に帰ってきたらとても家の中がきれいになっていた」との事。

23/9/12

   横浜の義姉の長女から電話。義姉から長く電話も無いと思っていたら、足を痛めて入院していたらしい。
   足が腫れて動けなくなり救急車で運ばれたそうだ。腫れは細菌性のもので抗生物質ですぐに治まったが、まだおかしいという事で調べたら股関節骨折という事が分かり、こちらでかなりかかったらしい。救急病院からリハビリ病院を経てやっと帰って来るのだとの事だった。
   介護度が付いたので、退院したらケアマネージャーさんと今後の方針の打ち合わせだそうだ。子供達もそれぞれの仕事があるし、昼間安心できるためにもリハビリを兼ねてディサービスなどが使えるようにすると良いとは思うが、当事者に都合の良い解決になれば良いと思う。
   「お中元のマグロはそのまま冷凍庫に入れてあるので、母が帰ってきたら食べます」との事だった。

23/9/9

   春先に亡くなった世田谷のはとこの弟君から七七忌が終わったと挨拶が届いた。
   亡くなった長男とは同い年で、年の近い長女と3人子供の頃よく遊んだ仲だし、次女は伯母さんの介護をしていたのでお互いに母親代理でやり取りがあったが、この次男君とは一回り年が違っていたし、あまり接点がないままでいた。
   挨拶を頂いたので返事を出さねばとは思いながら、何を書けば良いのかとしばし悩む事になった。電話で直接のやり取りより、一方的に伝えられるので、手紙の方が楽と言えば楽なのだが…。

23/8/16

   台風7号は台風直撃の被害より、鳥取の水害やお盆時の新幹線の運行ストップで大きな被害を出した。
   大津の従妹は連島に里帰りをしていて帰りは在来線で6時間もかかったそうだ。天王寺は停電、田原本では細かいものが飛び散ったらしい。

23/8/11

   ハワイのマウイ島に従妹が居るのだが、山火事で大きな被害が出ているというので心配していた。さいわい「こちらは熱帯雨林側だから大丈夫」との事だが、大事にはなっているらしい。とりあえず、無事という事でホッとした。
   藤守の父さんはまた入院をしていたらしいが「来週には退院したい」という程に持ち直したようで自ら電話をかけてきた。

23/7/29

   藤守の父さんは25日に退院して来たらしい。米を頼みたかったのだが、しばらく自分の所では作っていないので取り置きは無いという事だった。

23/7/17

   藤守の父さん、今週中には退院できるかもとの事。母さんによると「病気のデパートになっちゃって」院内各科の世話になっているらしいが、本人は比較的元気との事。

23/7/12

   藤守の父さんがそろそろ退院しているかとTANUKIが電話をしてみたら、血圧が上がってまだ病院に留め置かれていたそうだ。
   体温並みに高い気温の中に帰って来るよりも病院の方が安心できる環境だが、本人はがっかりだろう。

23/7/10

   埼玉の従弟からメールが入ったけど、筆者はママかな?話の内容は通じるが、誰のアドレスかは分からない。叔父がメールをくれる事が多かったのだが、さすがにもうお年だし…。
   北九州の従妹のダンナに「雨は大丈夫か?」とメールを入れてみた。自宅は水害はまず大丈夫という立地らしいが、さすがに道路状態が心配で自宅待機をしていたらしい。

23/7/9

   朝、函南の従兄から電話。「携帯に電話してもメールしても出ないんだもの」と心配されてしまった。実は電話の主の方が椎間板ヘルニアの手術で入院中だとの事。もう少しで退院リハビリの予定のようだ。
   北海道の従弟からはメール。岡山出張から帰って来たところだとの事。同じ30℃でも湿度が違って、体感は全然違うらしい。

23/7/7

   夏のご挨拶にジュンちゃんの実家へ。お父さんはお元気そうだが、歩いてすぐの商店街はほとんどシャッター街になってしまったそうで、買い物に苦労されている様子。車は手放してしまったので、近所の人が「一緒に行くか」と誘ってくれた時に買い物に出ておられるそう。
   藤守の父さんから「来週、退院が決まった」と電話。結局TANUKIはお見舞いに行かなかった。

23/7/4

   藤守の父さんから電話。2日に1度4時間の透析をしているようだ。
   話し方はまだモッタリしているが、ずいぶん話せるようになって、ぼやき節全開。ようやく退院のメドも付いてきたようだ。

23/6/27

   埼玉の叔父の孫の所に1月に男の子が生まれていたのだが、ようやくそのママから赤ちゃんの写真が何枚か届いた。半年の間にどんどん成長をしている様子がよく分かる。

23/6/26

   連島の従弟の長男(6歳)からバスディカードのお返事のハガキが来た。
   ママの解説付きの絵が中心だが、自分の名前の平仮名を中心に仮名はだいぶ書けるようになっているようだ。
   もう少し大きくなるまで「お返事」を見たいが、だいたいこの年齢位でお手紙ごっこは終わる。

23/6/19

   ふと気が付いたのだが、5/27の連島のお年忌で連島の次男坊に会った事で、和賀家系の従弟妹達とは大人になってから全員会った事になった。そんなに大事かというむきもあろうが、何しろ母は9人兄弟、しかも各地に散らばっている。
   新津とは伯父のお年忌で従妹と会えた。彼女は九州で暮らしている上、子供に障害があるため何かあってもたいてい連れ合いの方が来ていた。長男夫婦は埼玉なのだが何かある時くらいしか会えないが…。田原本は同い年の1人っ子同士、親が居なくなってからは結構付き合いが濃くなった。岩手も何度か行っているので皆に会っているし、母の1年忌の時に姉弟皆で来てくれた。岡山は長男とはかなり以前彼が再婚した後に会いに行っている。次男とは叔父の納骨の時に会った。日比の叔母は母が特に仲が良かったので、1度子供達4家族皆で焼津に来てくれた事がある。あの時幼かった子供達もみな大きくなったが、とりあえず次の代まで直接会っている。天王寺の長女はハワイなのでなかなか会えない所だったが、叔母の見舞いや葬儀でしばらくぶりに会う事が出来た。次女とはだいぶ年が離れているのだが、最近は1番の『和賀家の通信』の記事提供者だ。十勝の長男は大学がこちらだったので、青年期は知っているが、孫もできてだいぶ貫禄が付いている事だろう。長女は大阪に居るので、天王寺まで行けば会う事ができる。そして連島、長女は親戚の用事などで出てくる事が多いので、年は離れているがそれなりの付き合いはある。長男も家に戻ってきたので、母の納骨などでお世話になっている。ところが次男は一般の仕事をしているので忙しく、赤ちゃんの時以来会っていなかった。長女は大津だし、長男は最近まで1人者だったので、連島で何か行事があれば次男の嫁さんが手伝いに来てくれているので嫁さんにはすっかりお世話になっているが…。

23/6/14

   TANUKIに電話が来たようだが、藤守の父さんはまだ体調が悪そうだ。なかなか微熱が取れないらしい。しかし、本人が電話を使えるのだから、それなりに落ち着いているのだろう。ただ、あまり辛いところに見舞いに行っても悪いので、タイミングがむづかしい。

23/6/12

   昨夜、北海道でかなり大きな地震があったらしいので「大丈夫だったか」と従弟にメールをした。
   地震は揺れただけで被害はなかったようだが(こちらの豪雨同様に防災無線は賑やかだったようだ)、ご本人が最近、山でクマに遭遇したそうだ。もちろん無事だったわけだが…。
   先日は日比の家で「家の植え込みの土留の石をイノシシに掘り返された」という話を聞いたばかり。
   野生動物はずいぶんと身近な所までやって来ているようだ。

23/6/11

  今月の『和賀家の通信』の編集をしていて、誕生日・結婚記念日のチェックをしていたら意外と多い。いつもなら該当者にお祝いを一言書き加えるだけだが、どうせ特集でA4裏表にまとめたので、別冊で誕生日祝い・結婚記念日祝いを作った。
  日比の従弟が本部教会の行事をLINEに上げたらしく、スマホが賑やかになっている。今まで関りが無かった世界なのでちょっと面白い。

23/5/29

   岡山土産を届けに藤守へ行ったら、父さんがまた入院をしたそうだ。最近体調も良く、「田圃をやろうか」「旅行でも行こうか」と言っていたらしいが、何度目かのコロナワクチンを打った後、微熱が出て治まらず、病院へ行ったら腎臓の数値が悪くなっていたようだ。これから生検をして詳しく調べるという事らしい。
   さすがの母さんもちょっとガックリ来ているようだが夜勤から戻ったところで、これから仕事の長男と入れ替わりのようだ。
   病院のお見舞い対応も少し緩くなったようで、1日2人、1人数分なら会えるそうなので、少し落ち着いたらTANUKIも見舞いに行く算段をしたい。

23/5/27

   連島の叔父の3年祭。日比の従弟に駅まで迎えに来てもらって、天王寺の従妹ともそこで待ち合わせ。同じ電車で来たのだが、彼女とは駅まで会えなかった。日比の叔母も一緒に連島へ。和賀家系は本家のお姉さん夫妻・田原本の三女も登場。母がよく「ハラダのおばさん」と言っていた方の末娘だという方とも多分初めてお会いした。もちろん連島の3姉弟家族も出席。長女家は夫妻と次女、次男家は子供達はお留守番で夫婦で来ていた。この次男など私は赤ちゃんの頃に会って以来。連島の叔母さんは認知症がだいぶ進んでいるのだが、お祭りの間は緊張していたようだが、お兄さんが見えていてお直会では楽しそうに話をしていた。他に長男のお嫁さんのご両親と近所の信者さん?が数名見えていた。
   まだコロナの影響もあってか、ほぼ身内のみ。親教会の先生も見えてくれていたが、祭主は長男が、祭員はその奥さんの2人でお祭りを進行した。それぞれに榊をお供えして終了。まだ幼稚園児の長男家の長男も1人前に「やるのだ」と榊をもらって神前に供えた。
   お直会の会食も身内だけ、今は皆車だし、コロナの後だしという事で、アルコールも無く静かに会食。2時間ほどで終わった。
   田原本のお祖母さんも孫に言わせると「家で1番元気」だそうだし、天王寺の長女の子も「よく眠る子で楽」だそうだ。
   お祭りの後、天王寺の従妹を倉敷駅まで送り日比へ。
   日のある内に日比のお墓へお参り。こちらの叔父さんも3年前に亡くなって、お参りできずにいた。お墓は以前あった所から家の近くへ移したそうでまだ新しく、小さな児童公園の脇の坂を上ると小高い丘の上で、目の下に瀬戸内海がある。
   日比の家に戻って、明日のコンサートの合唱の練習に行っていたという長男の帰りを待って夜中までの大宴会となった。

23/5/14

   十勝の叔母から電話。末の孫も高校生になり、部活やバイトで青春をエンジョイしているようだ。
   叔母もかなりの年齢だが、不便な所なのでまだ運転免許は手放せないらしい。「田原本の義姉さんもまだ自分で運転して病院に行っているみたいだし」と皆さんお達者。

23/5/13

   埼玉の叔母から電話。叔父はだいぶ耳が遠くなってしまったようだ。長男の末っ子の所は1月に男の子が生まれたそうで、またひ孫ちゃんが増えて賑やかになったようだ。
   瑞穂の従妹からはメール。リュウマチが良くないようだが、次女が犬連れで戻っているそうで、色々手伝ってくれているようだ。

23/5/12

   日比の叔母から電話。連島のお年忌の時の迎と泊りをお願いしているのだが、「次男・長男と3世帯分の荷物で狭くなっているよ」との事。
   従弟と都合の良い待ち合わせ場所についても相談。今週が終われば忙しさも一段落するので、そろそろきちんとした計画を立てなければ…。

23/5/11

   横浜の義姉から「雨がすごかったんだって?」と電話。
   お風呂場で転んで救急車に乗ってしまったというような話をしていたが、大丈夫だったようだ。ただ、足が弱くなってしまったようで、2Fに上がるのも大変だというようなことを言っていた。

23/4/21

   連島から叔父の3年祭の連絡。
   日帰りはできないので、いとこ達と連絡を取り合って、送り迎えの足と泊る所の確保を考えなくては…。
   しかし、コロナでお葬式にも出られなかったので、この際、同じ岡山県内なので連島だけでなく日比の叔父のお参りもさせてもらうルートを考えたい。

23/4/18

   瑞穂の長女が末っ子の入学式の写真を送ってくれた。
   お気に入りのピンクのランドセルで楽しく通学しているようだ。本人のお手紙も入っていて、女の子はこれがうれしい。
   これでみんな小学校。お兄ちゃん達も大きくなった。

22年