我が家&和賀家 24年

25/3/31

   岡山の山火事は何とか消し止められたようだ。とは言っても完全に鎮火とはいかないようなのだが…。
   大津の従妹から連島と日比に行ってきたとLINEに写真が来た。彼女の弟を運転手に日比に行ったらしいが、マスク姿(高齢の叔母と大病中の従弟がいるので)では分からなくて「息子さん?」と聞いたら「弟です」と返されてビックリ。先月お年忌で会った時とだいぶ印象が違うのだが…。

25/3/24

   岡山市の山火事に玉野市の地名も出て来て心配だったが、日比からも火が見えているうだ。何事も無ければ良いのだが…。

25/3/20

   お彼岸の中日なのでこちらのお参り。(八王子には入りの17日に行ってきた)
   マーミ宅はテニスでお留守。とりあえずお墓参りに行ったが、こちらも掃除をしていないようで、ざっと草取りをしてお掃除。お線香だけあげてお参り。同じ墓地にある叔父のお墓にもご挨拶。
   そのまま藤守へ。長男坊と猫がお留守番。子供の声が無いと猫も愛想良く出てくる。母さんは妹家族と買い物に出ていたらしい。お仏壇でお線香をあげてお参り。「父さんが毎年家にもお参りに来てくれたよね」と言うのにうんうんとうなずいていた。
   帰りにスーパーで花を買ってお墓に立てに戻った。
   昼過ぎにはマーミ達も帰ってきたようで、午後から寄ってみたら、かなり疲れているようだった。それでも「今月で町内会長の役が終わる」とホッとしていた。

25/3/11

   天王寺から新築落成報告祭の案内が来た。何度も和賀家系の住所や名前の字の確認メールが来たが、宛名書きを手書きにしたようで、これは大変だったろうと思った。

25/3/2

   最近はマーミ宅も藤守宅もなかなか訪ねる事がない。皆仕事に出ていて忙しいというのもあるが、こちらも年で夜の運転はしたくないというのもある。遠くはなくてもご無沙汰が続いていた。
   午前中、防災訓練なので昼頃なら居るだろうとマイナーな岡山土産を持って訪ねてみた。
   珍しくどちらも皆在宅、それぞれに元気そうで安心した。

25/2/25

   予定の日程は終わったので、本日は日比の長男の案内で金光へ。
   その後も何度か来てはいるが本部のお広前に前回来たのは祖母が健在な時。当時の建物は別の用途に使われ、コンクリート製の建物になっている。外観は何度か見ているが入るのは初めて。シンプルで巨人の国に迷い込んだよう。
   信者ではないので本式のお参りではなく従弟について行くかたち。彼は昨日無事に父の5年祭が終わった事の報告。ついでに私の事も紹介してくれて、祖母と叔父達のお年忌に来て、しばらくぶりにご本部に来た事を伝えてくれた。祖母と来た時は「よくお参りでした」と声を掛けられたが今回は互いに会釈をしただけ。
   境内にある教祖が住んだ家(レプリカだが当時の農家建築)を見学、普段はご神前になっている表座敷しか見られないらしいが、「裏が住まいのスペースだよね」と戸に手を掛けたら開いたので、覗いたら土間と2間ほどの部屋だった。
   裏山は所々墓所になっていて教祖の奥城や和賀家のお墓もある。ずいぶんと綺麗に整備されたようだ。
   本家のお姉さんはお留守のようだったが、神前だけお参りをさせてもらってご先祖の写真の説明などもしてもらった。
   最後に好物のお饅頭とお煎餅を手に入れ、岡山まで送ってもらった。
   タイミングよく始発のひかりに乗れた。ただタイミングが良すぎて買い物ができなかったが…。お蔭で夕方には家に帰りついた。

25/2/24

   今日は日比のお年忌。午前中に長男夫婦と一緒に買い物。行きがけの公園で水鳥にレタスの外葉をやり、同じ園内のマーケットへ。魚屋さんは近海のものが多く魚の種類が多い。ここは見るだけで次のJAの直売所へ。こちらではお墓用の花を買う。帰りにお墓により榊と花を立てる。冬なので落ち葉も少なく歩きやすいが、相変わらずのすごい坂道。でも見晴らしは良い。
   帰って軽い食事の後、ここでも例祭の後続けてお年忌。ちょうど叔父さんの命日当日に当たるらしい。こちらは本家のお姉さん夫妻と叔父さん方の親戚の女性、他は信者さん方だった。かなりの年の小型犬を連れてきた方がいて、「ちゃちゃまる」と名前を教えてくれたので「家には猫の茶々が居た」というお話をした。「20年生きましたよ」と言ったら「もう少し頑張れ」と犬に向かって言っていた。
   こちらは長男・次男でのお祭りの執り行い。
   そしてここのお直会はお供えされたものを集まった皆で分け合って持って行くことらしい。お供えを下げて分け合うのにかなり時間がかかった。ここでも長男家の次男坊、マイペースかと思ったらしっかりお手伝いをしていた。
   大きな鯛2匹は家でお刺身に。これも何軒かで分け、残ったアラは叔母さんがみそ漬けにした。
   明日仕事の長男の嫁さんは鯛をおろしただけで岡山の実家の方へ戻って行った。
   お直会のお届けなどもあって、かなり遅い夕ご飯。

25/2/23

   しばらくぶりの朝5時前起きで7:42静岡発のひかりに乗る。途中名古屋を過ぎてしばらくしたら雪、その後5分位ずつ遅れていた。ひかりが時間を稼いでも、後から来るのぞみも当然遅れて来るのでやり過ごしているとまた同じの繰り返し。それでも無事に岡山へ。今回は新倉敷で待ち合わせたので、ここで時間待ち。余裕で着いたのだが、お迎えが来ない。30分ほど待たされたがお迎えの日比の従弟と無事に合流して連島へ向かう。途中で昼食のうどん屋さんはご馳走になる。
   それでも12時頃には着いてしまい、昼時で悪いかとも思ったが、日比の従弟は従弟で明日のお年忌の準備があり忙しいので仕方がない。彼は私を置いて、お参りだけしてとんぼ返り。
   連島の従弟は従弟でギックリ腰の後だとかで、しんどそうだった。その分子供達が盛大に迎えてくれた。上が小1で、下の子も2歳になり人見知りは卒業しているらしい。子供達と遊んでいると次男の嫁さんが登場、叔母さんのお昼の介助に来たようで、ついでに最近の様子や長女家が旦那さん方の親族の不幸で来られない事などを教えてくれた。
   お年忌の前に教会の例祭で数人の信者さんがお参りに来られたのに合流。子供達もそれなりに大人しくしているのはさすがに教会の子達。
   続いてお年忌。本家のお姉さん夫妻、田原本は従妹と次女・三女、日比は叔母さん・次男・長男の嫁さん、原田のはとこ?なども見えてお祭り。連島の叔母さんも次男夫妻に介助されて出てこられた。
   お直会は近所の料理屋さん。ただ連島は叔母さんの介護や小さな子供もいるので長男・次男に長男家の長男(1年生)が参加。私にとっては同じ海の近くで魚料理が中心でも魚の種類が違うのが珍しかった。
   お開きの頃には雨、それが日比に向かう山中では雪に変わった。
   日比にはもう春休みに入ったという高専2年の長男家の末っ子君。しっかり自分の世界に入っていたが…。
   明日のお年忌の準備もあるので、そこそこで休むことになった。

25/2/21

   日比から、連島の翌日に叔父さんの5年祭をすると連絡。日比の叔父さんこそこの季節に亡くなられたはずなので、田原本と「何時だろうね」と言っていたのだが、これならまとめてお参りができるので助かった。
   もちろん、もう1日泊めてもらう事にして予定を組む。

25/2/8

   天王寺続報。新宅の方に新しいご神前も整って、こちらでの仕事も開始したとの事。少しこじんまりしたので落ち着くそうだ。

25/2/7

   天王寺が2月に引っ越しすると言っていたのだが、「終わった?」と聞いたら、ボチボチやっているようで「まだ生まれ育った所から離れがたい」との事。結局今月一杯位かけて荷物を移すようだ。

25/2/5

   『すごい雪だよ』と十勝の従弟からも写真付きのメールが来た。1晩で1mも降り積もり、雪かきで夫婦とも筋肉痛だとか。
   連島のお年忌対応も色々と。日比の叔母からは「泊る所あるの」と電話。泊めてあげるというのでありがたくお年忌の後ついて行くことにしたら、日比の長男から「午前中は暇だから駅から連島まで送るよ」と追いかけ電話。午後に用があるために欠席予定だったらしいが、「お祖母さんの50年なので一応お参りくらいは」という気らしい。
   その後で田原本の従妹から電話。やはり「どこに泊まる」の話で、彼女達はビジネスホテルが取れたらしい。(私は全敗したので、どこのホームを使っているのか聞いておかなくては…)「日比の叔父さんも5年祭のはずだよね」と言われて(まさに今頃ではなかったか?)これは日比もお参りに行かなくてはと思った。話の途中で「すごい雪!遭難しかねない」という声が聞こえてきた。

25/1/31

   連島の従弟からお年忌の連絡。
   お祖母さんの50年祭に合わせて叔父さんの5年祭もやってしまうようだ。行きたいのだが、日帰りには遠すぎるので、色々と調整ができるかどうか…。

25/1/10

   日比から遅めの年賀状が来た。昨夏、娘婿殿が亡くなっているので今年は喪中にするのかなと思ったのだが、子供達家族のほとんどが集まって賑やかだったようだ。
   十勝からはメールで家族写真が送られてきた。子供達はそろそろ大きくなったという表現より大人びてきたというべきだろうが、孫ちゃんがずいぶん大きくなっていてビックリした。

25/1/2

   正月恒例、親戚への年始回り。
   まずは保福島の叔母さんの所から。夏は暑すぎて食欲がなくなり、ずいぶん痩せてしまったのを娘さんが心配して一緒に食事をしたりしていたそうだ。そして、ジュンちゃんの実家ではしばらくぶりにお母さんと「お正月だけねぇ」とお会いできた。お孫さんが来ていて、すっかり大きくなってどの子か分からなかったが3人娘の長女さんだったようだ。
   そこからいつものように築地にまわったが、来ているようだけどお留守のため後回しにして高柳の叔父の所へ。次男・三男君ともお元気そうだが、叔父さんはベットから離れられなくなったようだ。それでもお風呂に入れてもらったりの必要もありディサービスには通っているそうだ。
   小土ではダンナ同士で病気自慢…。年齢的に仕方がないが、まだ笑い話にしていてほしい。高齢者としてはお互いに若い方なのだから…。
   ここから港へ、今は長男1人で住んでいる。施設にいるお母さんとはあまり会えないらしいし、お姉さんも訪ねては来ないらしい。
   大へまわると、叔母さんがお孫君の1人が公務員から民間へ仕事を変えたと怒っておられた。昨日はその娘さん一家が家族で訪ねてきてくれたそうだ。
   マーミの所は地元自治会の餅つき大会の手伝いに駆り出されていた。「せっかく道具を片付けたのに…」と言いながらまた大包丁が登場していた。
   最後にぐるっと回って築地。長男夫妻と次女夫妻でちょうどお昼の最中。話している途中で岡崎に住んでいる長女夫妻が登場。この時期の高速の移動は大変だ。さすがに「日帰りだし、今年が最後かも」と言っておられた。

25/1/1

   藤守の母さんのお正月のオフは元日だけだというので、お昼過ぎにちょっと顔を出した。
   しばらくぶりに会った長男も元気そう。ずいぶん細々とお母さんを手伝うようになっている。
   娘一家が来ていて、ここの娘ちゃんもずいぶん大きくなっていた。子供が来ていると猫はどこか別の部屋に撤退らしく、姿が見えなかった。
   おしゃべりをしている内に次男坊一家も大量の食い扶持を持って登場。
   女の子2人、早速キャッキャっと遊び始めた。

24/12/30

   恒例のマーミ宅での餅つき。餅の供給元の藤守が父さんが亡くなって田圃をやらなくなったので、市販のもち米をマーミが手配してくれた。
   今年も藤守と3軒で。母さんの後から次男坊一家が登場。娘ちゃんも交えておさんこち作り。娘ちゃんも娘ちゃんの父さんも良い勝負の作品ができた。「餡子が多いほうが美味しいよ」とてんこ盛りに入れてお腹側がパンク寸前。マーミも家もほとんど他所へお使い物にするので、数は欲しいのだが、あまり「これ何?」ができるのも困るのだが…。
   それにしても今時の子は4歳にしてマニキュア、リップまで持ち込んでいる。ユーチューブで情報を仕入れるらしい。

24/12/17

   ジュンちゃんの実家へ暮れのご挨拶。
   日曜日に寄ったら雨戸までしっかり閉まっていて、どうしたのかと心配したが、上の娘さん家族と旅行に行っていたそうだ。
   今日は詩吟のお弟子さんが見えていてお稽古中。
   「足がね」と言っておられるがお元気そうだった。
   下駄箱の上にずらりとサツマイモやジャガイモ、大根・人参などの芽が並んでいた。「切って置いておくと葉が出るから」と楽しんでおられた。

24/12/4

   横浜の義姉のお姑さんが亡くなった。多分100歳近くになられていたはず。
   義兄が亡くなり、義姉の体調が思わしくなくなってからは施設入居をしていてお会いする機会もなくなったが、ポジティブでお話をして楽しい方だった。
   子供達2家族で本当の家族葬で見送るそうだ。

24/12/2

   日比の叔母から電話。年末を控えて相変わらず忙しそうだが、今日まで東京の娘が来ていたらしい。
   次男坊が体調を崩し検査で病院に行っているそうで、我々の世代もいよいよ体調を気にしながら過ごす年代に入ったようだ。

24/11/30

   十勝の叔母から電話。「こちらは晴れているけど北海道は雪の季節だよ」との事。今日は従弟は旭川の方へ出ているようだが、「あの子も年だから運転が大変よ」ときた。北海道はちょっとの距離が広いし、氷路・雪道で確かに大変だが、彼はまだ50代のはずだが…。
   米寿を記念して「遺影を取った」とも言っていた。しかし、今日も仲間とペタンクをしてきたとかで、相変わらずお元気そうだった。

24/11/29

   横浜の義姉から電話。声は元気そうだが、「出かけるのは医者ばかり」とぼやいていた。

24/11/13

   スーパーに買い物に行ったら大の叔母さんにバッタリ。叔母さんにとっても新しくできた小土の系列店の方が近いらしいが、「あそこは車で出るのが怖い」ともっぱらこちらを利用しているらしい。
   相変わらず溌溂と元気だが、「もう80だよ」と「足に突然、神経痛が出た」とぼやいていた。もっとも実のお姉さんも妹さんも皆お元気だそうで「それじゃ負けられないね」と励ましてきた。

24/11/9

   昨年は世田谷のはとこに、この夏には日比の従弟に和賀家のお祖母さんのルーツの話を知りたいと聞かれた。
   家の祖母が世田谷のお祖母さんの妹なのだが、ここからディック・ミネさん(三根家)との薄いつながりが出てくる。母の記録によると、ここからもう1世代さかのぼって祖母達の母親がディック・ミネさんのお母さんと従姉妹の関係になるそうだ。それが何故か一時、九州の飯塚に住んでいた頃に近所同士で、よく遊びに行っていたようだ。
   それがどこかに時点で、世田谷のおばあさんは結婚して東京に住むようになり、ミネさんも東京住まいになった。そこに祖父の従姉に当たるおばさんが結婚されて東京住まいになり、この方が世田谷のお祖母さんと仲が良かったので、ずっとつながりが続いたようだ。
   そんな関係で、戦前に東京の大学に通った母の長兄の新津の伯父は東京の親類には大いに世話になり、手元不如意になるとあちらこちらの親類を頼りご馳走になっていたようだ。特に、ミネ家では兄貴分になるミネさんのお下がりの着る物なども頂いていたらしい。
   ほぼ同世代の世田谷の伯父と新津の伯父はずっと付き合いが続いたいたらしく、私の子供の頃もおじいさんのお祭りに祭主として来ていた。
   なお、私からするとひいお祖母さんになる祖母達の母親は戦後は岩手に住んでいて、私の父方の祖父が岩手に行った時に写してきた写真が残っている。
   実は、母の弟も岩手に開拓で入って住み着いたが、父方の祖父も同じ地域に入って、娘(父の妹)はそちらで結婚して住み着いていた。それで祖父が訪ねた時に皆の写真を撮ってきたものと思われる。
   叔母一家は早い時期に一家で函南に越してしまったが、ずっと後に、母の1周忌の時に両方のいとこ達が来てくれて、共通の知人の話などで盛り上がっていた。

24/10/25

   下の写真を記憶があるであろう十勝の叔母に送ったところ、S31年、日比の叔母の結婚前の写真だそうだ。

24/10/23

   天王寺の従妹から家の片付けをしていたら古い写真が出てきたと送ってきた。お祖父さん・お祖母さんの写真が数枚と女性3人の写真。多分、母の妹3人なのだが、時代を言わずに「これ誰だ」と言えば色々な名前が出てきそうで、遺伝子は面白いと思った。

24/10/21

   十勝の叔母から最近珍しく手紙が来た。『和賀家の通信』も30年以上続いているんだねと、まずはお褒めの言葉。
   ご本人はあまり歩けなくなった分、車は手放さず、まだ通院などは1人で行っているそうだ。高齢者率の高い町だからと色々なお役目もまだ現役、でも「どこへ行っても最長老になりつつある」とか。町の高齢者知識アップサロンで漢検にも挑戦しているらしく、手紙も漢字の多い黒々とした書きぶり。
   来年2月は和賀家のお祖母さんの50年祭だそうだ。

24/10/17

   瑞穂の従妹から末っ子が家族だけで結婚式を挙げたと写真が届いた。
   お祖父さん・お祖母さんになる埼玉の叔父夫妻もきちんと列席されたそうで、お元気そうで何よりだ。
   この年になると葬式だ法事だという話ばかりなのでおめでたいニュースはありがたい。

24/10/5

   静岡のおばさんの49日忌。「菩提寺さんでお経だけあげてもらうから、来るだけで良い」という事で10時にお寺集合。喪主さんとマーミと我々、相談したわけでもないけれど、同時に到着。
   すでに本堂に写真と位牌が用意されていて、すぐにお経とお焼香。その後お墓でもお経をあげて頂き、皆でお線香をあげた。
   「すぐそこにお持ち帰り寿司の店があるから」と「好きなのを選んで」と喪主さんが祓いの膳の代わりに持たせてくれた。「持ち出しじゃん」とマーミが心配をしたら、「その分はおばさんの遺産から出してもらうから」としっかり領収書は集めているようだった。

24/9/20

   日比の叔母から電話。「もう外は歩けなくて」と言うが、声は元気そう。
   相変わらず「涼しくなったら家の中を片付けなくては」と言っている。改築後、母もずいぶん色々なものを押し付けていたが、長男・次男がそれぞれ合流したことで「3世帯分の荷物があるからね」と許容量オーバーは一筋縄では収まらないようだ。

24/9/14

   もうじき秋のお彼岸。
   先日TOPPOさんから恒例の中秋月餅を頂いたのでお供えをしてある。何故か我が家の仏さん、お彼岸もお盆もたいていお供え菓子は月餅。祖母の時代から中村屋の月餅だったので、多分日持ちを考えた選択だったのだろう。
   そして今日は日比からブドウが届いた。「姉さんが好きだったから」と叔母が秋のお彼岸近くに送ってくれる。この気温では日持ちしないのでお供えは何時も一瞬で冷蔵庫に直行だが…。
   お彼岸には1週間早いが、仏さんも楽しんでくれただろう。

24/9/8

   横浜の義姉から「台風大丈夫だった?」と電話。「大変な時に電話をしても」と落ち着いたころを見計らって電話をくれたらしい。
   幸いこちらは交通機関は止まって大変だったが大きな被害なし。義姉の所も特に被害は無かったようだ。
   「出かけるのはお医者さんばかりで…」と言っていたが、だいぶ元気が出てきた声だった。
   ついでに藤守の1周忌があった事を報告。

24/9/7

   藤守の父さんの1周忌。
   お寺さんに集まってお経の後、お墓参り。その後は船小屋で祓いとなった。
   昨年からするとずいぶん大きくなった孫ちゃん達、お経もお墓参りもとてもお利口さんにしていたが、お昼を食べ終わると急に元気になって、前に出てきてスマホの音楽に合わせて疲れ知らずに踊っていた。

24/9/5

   静岡の伯母さんのお葬儀。8時半に出棺のお経という事で8時到着を目指したが、渋滞にはまらずに済んで40分かからずにあっけなく到着。喪主さんは「R1で渋滞にはまった」としっかり1時間かけて到着。ご近所の皆さんもこの時間に合わせてきてくれた。ケアマネさんも「施設に残っていた私物です」と持ってきてくれて出棺を見送ってくれた。
   お経の後は祭壇の花や施設での行事の時の写真などをお棺に入れて出棺。親族が残り我々しかいないので、写真と骨壺をそれぞれ持って火葬場へ。
   火葬場でのお別れの後、待ち時間に皆で食事をしながらいろいろな思い出話。伯母さんにお兄さんが居たという話は私以外も知らなかったらしい。戦後に結核で亡くなったそうだ。
   それ以外にも「ホイと海外まで旅行に行っちゃうし」などの話も出て「ちゃんと添乗員さんへのお土産を買いにデパートに行ったりするのよ」などという裏話も。ご近所の皆さんとも「美味しいものを食べに行きましょう」などと仲間を集めて楽しんでいたようだが、女学校時代のお友達とも誘い合ってお食事に行ったりしていたそうだ。
   お骨揚げが終わってからのお葬式は菩提寺さん。ここからはご近所の方の先導で、お寺へ向かう。伯母さんは元気な内はほぼ毎日、散歩がてらお寺へお墓参りに行っていたようだ。家の位置は何となく分かるのでその近くなのだろうが、どこを走っているのかさっぱり分からなかった…。
   立派なお寺さんでお葬式と初七日のお務め。戒名は久室妙壽大姉。事情もあるので、今日の内に納骨まで済ませてのお開きとなった。

24/9/4

   静岡の伯母さんが亡くなって今日がお通夜だった。享年97歳。
   一人娘さんだったうえ結婚もされなかったので、喪主は港の叔父さんの妹さんがされた。かなり年は離れているが、亡くなられた伯母さんとは従姉妹になるらしい。こちらもご主人は体調不良との事で1人でキリキリしていた。叔父さんの所の子供達とは連絡が取れず、お通夜の時間までに現れた親族は後は我々のみ。それも昨日夜になって連絡をもらったのだが。後から仕事終わりのマーミも現れた。
   それでも元のご近所の方や、施設の職員の方などが集まってくれ、お経の後も皆さんゆっくりとお別れをしていってくれ、いいお通夜だった。
   伯母さんは今年の6月頃までお元気だったようだが、食事が取れなくなり天寿を全うされたようで、良いお顔で休んでいた。喪主としては「生前まだ話ができる頃にもう1度会いたかった」と悔やんでいたが…。最後も連絡が来たのが丁度台風で電車も道路も止まっている時で会えなかったそうだ。

24/8/2

   天王寺の従妹からメール。家の孫ちゃんがRSウイルスで入院してしまったそうだが、心配な状況ではなく、お守りから解放されて少しほっとしたらしい。
   教会引っ越しの件が12月移転の予定に決まったそうだが、「今の建物もホッとしたのか大分ガタがきた」とぼやいていた。大阪の便の良い所にあったので、関西で用があるとよく泊めてもらった所なので寂しくはあるが、大きな建物なので、管理は大変だったと思う。

24/9/1

   十勝の従弟から台風見舞いのメール。
   本人は前の金光様のお葬儀で金光へ出張していたそうだが、飛行機には影響なく、新幹線が止まっても問題は無かったのだが、北海道に着いたとたんに北海道を襲っていた豪雨による土砂崩れで高速道路も鉄道もアウト。大渋滞の一般道で帰宅したそうだ。

24/8/25

   インドネシアへ里帰りしていた従弟夫婦がお土産を持ってきてくれた。
   叔母が出発便の遅れを心配していたが、1晩ロスしたそう、帰りも予定の飛行機が飛ばず遅れて帰って来たそうだ。それでも家族や親類や友達にも会えていい休日だったようだ。
   彼女の故郷はインドネシアでも高地の方で、湿度が無いので日本よりずっと涼しいと言っていた。

24/8/20

   天王寺の従妹からメール。おひとり様で町の夏の行事を楽しんでいるよう。盆踊り好きは和賀家のDNAに入っているのだろうか。忙しいはずだが若いってうらやましい…。

24/8/13

   午後からマーミ宅(本家)へお盆のお参り。
   「今年はやめた」と盆棚は作っていなかったが、ちゃんと胡瓜と茄子の馬と牛には餌を置いていた。だんだん代替わりをしてお盆に誰かが来るという風習もなくなっていくのかもしれない。

24/8/11

   朝の内に大の叔母さんのお使いで藤守へ。帰りに叔母さんの所へ寄ってしばらくおしゃべり。
   こちらつながりでは当目も叔母さんの初盆なのだが、今朝TANUKIが本家の従兄に聞いたところでは8月早々に家族だけでやったとの事で、かえって気を使わせても悪いので良いにしようかとなった。

24/8/10

   夕方、藤守の父さんの初盆の棚経。
   娘家は都合がつかなかったようだが、次男家と藤守のお兄さん・妹さん、マーミ夫婦と我々が集まった。丁度お坊さんが見えて座敷に集まった後に来たらしいマーミ達は「誰も出てこないのでお寺さんへ行ってみた」とぼやいていた。
   お経を終えてお坊さんが帰られた後、しばらくおしゃべりをして解散。
   帰りに保福島へ託った初盆見舞いのお返しを持って行ったら、「息子たちは羽田へ着いたはいいが、その先の飛行機が飛ぶのかどうかと言っていた」とのこと。この前の地震の影響か?
   帰ってきたら、今度は大の叔母さんが来て「藤守に初盆見舞いを届けて」とやって来た。

24/8/4

   保福島のTANUKIの従弟夫婦が用事でちょっと寄ってくれた。今年の夏は奥さんの故郷のインドネシアへ9年ぶりに帰る予定らしい。

24/7/30

   函南の従兄夫妻が来てくれた。奥さんの姉妹が島田に引っ越したので訪ねた帰りだそうだ。こちらも花時に散歩コースにしている島田ばらの丘公園の話を聞いたらしく、「今度は花の時期に行ってみたい」と言っていた。
   従兄もようやく仕事からは解放されたようで、「今は暑すぎてテレビ番」のようだ。
   次男坊が自宅から出て独り立ちしただけで、皆自宅の居心地が良いらしく、子供達は「家に居るよ」との事。

24/7/25

   東京で従妹の連れ合いのお葬式。何でも先代の金光様が亡くなられて本日密葬が行われているそうだ。金光教では亡くなるという事は神様の元へ帰る事なのだそうで、すごいお連れと一緒になった。
   彼女の長男はお父さんソックリになっていた。
   亡くなった彼は写真でもご遺骸もずいぶん細っそりしているが「最近はずいぶん浮腫んでいたよ」と彼女の兄さん。実は彼の方が亡くなった本人とは子供の頃からの友達。腎臓を悪くしていたようだ。
   家族葬ですると言っていたが、日比の長男・次男で祭主と祭員としてお葬儀を取り仕切った。
   3男家の長男は仕事が忙しくて来れなかったが、奥さんと次男坊もお参り。この次男坊、今年大学卒業のはずが、1年休学したのでまだ学生だそう。
   次男家の長女は東京住まいなのだが、コロナに罹ってしまったそう。
   後は埼玉に居る新津の長男と我々。それでも会社関係の方などかなりの数の方がお葬式にも来てくれた居た。
   葬儀の後で火葬なので、控室でもう1度お祭り。その後、装束の片付けなどバタバタしている間にお骨あげの時間になってしまった。
   ついでに、日比の長男家の長男は名古屋で所帯を持ったそう。大学進学で名古屋に来たはずが大学は合わずにさっさと横に出てしまったが、その後はしっかりと暮らしているようだ。

   さらについでに、デック・ミネさんはお祖母さんの何に当たる?と聞かれたのだが、さすがに知らない。

24/7/21

   瑞穂の従妹からメール。次女と一緒に保護犬の預かりボランティアを始めたとの事。もともと犬好き1家だから楽しいだろうが、家庭犬として訓練して誰か飼い主に引き渡すというのは気も使うのだろうと思う。

24/7/18

   東京にいる日比の従妹から電話。連れ合いが急性心不全で亡くなったとの事。彼は私より6歳も下のまだ現役、ビックリした。
   自宅で具合が悪くなり、救急車を呼んで病院でいったん落ち着いたそうだが、その明け方に急変して亡くなったそうだ。
   仕事関係の弔問もあるだろうから東京での葬儀だが2人とも岡山の出身、幸い彼女のすぐ上の兄が近くにいるので飛んできてくれたそうだが、身内が亡くなって葬儀をする事など人生にそう何度もある事ではないので、色々と大変そうだった。

24/7/8

   十勝の従弟からメール。池田町は7/6・7がワイン城の50周年+ドリカム35年の記念イベントがあって街の人口と同じぐらいお客さんが来たみたいです。長女はここにお勤め、長男もバイトで行ったようだが、ご本人は「出張で地元に居なかった」との事。

24/7/4

   田原本の初代(従妹のお祖母さん)の60年祭が来るそうだ。私は多分お会いしたことがない。
   母の次兄が養子に入った家で、行き来が盛んになったのは家の親達がある程度落ち着いた年代になって旅行(母の兄弟の所へしか行かないけど)なども楽しむようになってからだった事が大きいと思う。
   それでも母が晩年何かの時に「田原本の先生には、遊びに行ってご飯を食べさせてもらったり、一緒にお風呂に行ったり良くしてもらった」というのを聞いたことがある。
   もともと親しい付き合いがあったのか、伯父の養子先だったからか分からないが、距離感覚からして大阪に住んでいた頃の話なのだろうと思う。

24/6/19

   十勝のおばから手紙が来た。
   髪をショッキングピンクに染めて、相変わらず元気に動き回っているようだ。

24/6/18

   雨がひどいので函南の従兄にメール。どうやら自宅におこもりだったようで、「大丈夫」との事。
   それでも沼津から伊豆にかけてかなりの水が出たようだった。

24/6/1

   田原本の従妹の旦那が勤続40年となったそうだ。
   教会の仕事というのは一般の職業と違い、人の心に直接かかわっていくような所がある。さらにカウンセラーと違って1時間話を聞いていくらというものとも違う。さらに宗教の場にいる人たちは常に神(仏)と二人三脚で24時間体制、おかげも大きいだろうが負担も大きい事と思う。
   それでも元気に頑張っておられる姿は心強い。

24/5/26

   十勝の従弟は白内障の手術が半分終わって効果を実感しているらしい。
   叔母はお仲間にバースディパーティをしてもらって皆で盛り上がっていたそうだ。

24/5/20

   天王寺の従妹からメール。同じ町にいる従妹のKちゃんと「今年になって全然会えない」とぼやいているのを『和賀家の通信』に載せたら、「会えたよ」との事。お互いに忙しい年ごろではあるが…。

24/5/19

   十勝の叔母から電話。今月米寿だが、まだ車の運転はするそう。「麻雀は頭が疲れる」と言いつつお仲間と結構楽しんでいる様子。
   長男は今日も網走まで出張のようだが、近々白内障の手術の予定らしい。

24/5/18

   埼玉の叔父から電話。思いの外元気な声でホッとした。
   週3回透析を受けているそうだが、その日は疲れて後は元気にしているそうだ。

24/5/17

   日比の叔母から電話。相変わらず「忙しくて、忙しくて…」のようだ。せわしなくしていて、また転んで頭を打ったようだが、大丈夫だったらしい。みんな元気で忙しくしているらしいが、今日は、長男家の末っ子が学校の寮で高熱を出したとかで、父親がとんで行って医者に連れて行ったらしい。「まだコロナだと隔離しなくてはならないし」と言っていた。
   この春就職した長男家の娘は「大きなバイクで帰って来る」そう。他にも仕事で大型免許を取っているそうだ。
   「連島の長男に日比のお祭りの時にお話をしてもらったら、良い話をしてくれた」と喜んでいた。
   夜には横浜の義姉から電話。今回は家に居るというのでホッとした。声も元気そうだが、「家から出ないように言われている」らしい。自宅前がかなりの坂道だし、何度か転んで入院しているので心配されているようだ。介護手続きも取ったようで、色々な人が様子を見に来てくれるそうで心強い。「ちょっとそこまで行きたいのができないのはストレスだけど」とご本人。

24/4/16

   日比の従弟の長女から「無事に大学を卒業しました」と葉書が来た。
   幼い頃、1度家に来た事はあるのだが、それ以降会う機会もなかった。子供の頃のバースディカードや節目のお祝いカードは出していたが、どの子も「大きくなっただろうな」とは思うものの、何が好きとか何をしているとかは、親どころか子供達の祖母から家の母への話を聞いての手探り。それでも他所に見守ってくれているおばさんが居ると意識していたようで、うれしかった。
   一方、天王寺では白猫のラッキーがお年のせいかあまり高い所へは上がらなくなったとの写真。シャイな子だったけれど安心して寝ているようだ。人間達の方は相変わらず忙しいらしい。

24/4/8

   十勝からメールで、次女が進学のために家を出たとの事。
   犬のクリスケは換毛期でバサバサと毛が舞っているようだが、まだ雪の日もあるらしい。

23年